キリスト教における「教会」の定義

ところで、キリスト教では「教会」をどのように定義しているのだろうか。私が前に通っていた教会では「ウェストミンスター教理問答」という、非常に難解で硬派なカテキズムを使ってキリスト教の教理を学んでいたが、このウェストミンスター教理問答では、教会を「見える教会」と「見えない教会」とに分類して、それぞれを以下のように定義していた。

問62 見える教会とは、何であるか。

答 見える教会とは、世のすべての時代・すべての場所にあって、真の宗教を告白するすべての者と、彼らの子供たちとから成る一つの社会である。

問64 見えない教会とは、何であるか。

答 見えない教会とは、首(かしら)なるキリストの下に、過去・現在・未来を通して、一つに集められる選民の全員である。 (「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編,1994,新教出版社1963年訳より引用)


私は教会で、クリスチャンは「見える教会」と「見えない教会」のいずれにも属す必要があると学んだが、いずれの教会も、教会の構造やチャペルといった様式等の物理的な条件や制約を課されていないところは注目すべきだろう。教会とは、キリストを主(しゅ)とする人々が集まるコミュニティであり、キリスト信仰を共同で告白する場所としてしまって問題ないであろう。


つまり、教会として認定されるには、チャペルに牧師の教壇が備えられているとか、パイプオルガンが設置されているとか、十字架が高々と掲げられているとか等々の様式的条件は全然要求されない。教会を教会として成立させるのは、そこにどういう種類の人たちが集まっており、どういう内容のことを告白しているか、ということになる。


なお、上に「信仰告白」という普段の日本語の会話ではあまり使われない単語を続けて使ったが、キリスト教を含むいわゆるアブラハムの宗教の系列の宗教は、信仰告白を非常に大事にする。というか、これなしでは信仰そのものが成立しない。
信仰告白とは、信仰を持つと主張する人による公(パブリック)に対する告白であるが、問題は、その人がどういう告白をするかである。キリストの教会に集まっている人であれば、とりあえずキリストに関する何らかの告白をするのであろうが、その告白の内容が重要で、それ如何によってその人がちゃんとしたクリスチャンであるか否かが決定されてしまうのだ。よって、キリストの教会とされるには、そこに集まる人々がちゃんとしたクリスチャンとして「認定」されるに十分な信仰告白を共同で行う必要があることになる。(続く)



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