新約聖書はキリストを語った書物
ところで、聖書が新約と旧約の二部にわかれていることから、前編と後編の二部構成になっていると考えられたり、またはパート1と2の、オリジナルと続編とにわかれていると考えられる向きもある。例えば、映画スパイダーマンシリーズのパート1と2の関係のようなものだと考えられても別段不思議ではない。
たしかに、旧約聖書を聖書パート1、新約聖書を聖書パート2にすることは不可能ではないとも思われるが、そうしてしまうと何か重要な意味を失ってしまうような気もする。私は、聖書を真剣に読み始めた当初、新約聖書のすばらしさにばかり意識をとらわれていた。イエスという人はなんてすごい人だ、自分もこの人のようになりたい、いや、多分なれないだろうからせめて末弟子にでもしていただきたい、というようなことばかり考えていた。大学時代にはまったく響かなかった福音書の記述が、長い年月を経て響くようになったのだから、まったく聖書とは不思議な書物である。
ここでさらに話は飛ぶが、先日自分が通っている教会の牧師と話していたとき、前に読んだ三浦綾子の本の中で、三浦綾子が通っていた札幌の教会に、ある日一人の老人が突然訪ねてきて、牧師に「山上の説教をくれ」とせがんだという話が紹介されていたのを思い出した。その老人は、「わしはキリスト教は嫌いじゃが、山上の説教はいいと思う。うむ、あれは実にいい(なお、山上の説教とは、「心の貧しい者は幸いです」から始まるマタイ福音書第五章に記された有名なイエスの説教のこと)。だから、誠にすまんが、このわしに山上の説教をくださらんか、とせがんだそうだ。それを聞いた牧師が「あの、山上の説教なら聖書の中に書かれていますが…」と答えると、その老人は、いやいや、聖書はいらん。山上の説教が欲しいのじゃと、とにかく山上の説教をくれ、の一点張りだったそうだ。
その老人は、聖書に書かれた山上の説教の教えを心に刻もうとしたのではなく、ただ山上の説教と言う名のお札かお守り、あるいは巻物のような類の「ありがたいもの」を牧師から入手したかったのであろう。この逸話、日本人のキリスト教のとらえ方を象徴するようで大変面白いと自分は思っているが、多分、当の老人にとっては至極真剣な要求であったと思われる。
いずれにせよ、新約聖書の主人公はイエス・キリストであり、そのコンテキストはすべて彼にまつわる証言や逸話、そして関係者による書簡等の「神の言葉」によって構成されている。なお、こう書くと、神を信じない人はただちに「なんで聖書が神の言葉を記しているんだ?そんなの勝手に人間が都合のいいように編集しただけだろう」といった風な批判を浴びせる。
確かに、キリスト教の母宗教であるユダヤ教などは、新約聖書についてはおおよそそのような批判を浴びせる。しかし、誤解を恐れずに言えば、キリストを信じる人間とは、つまり新約聖書に書かれた記事を信じる人間のことであり、逆に信じない人間とはその逆であるということである。新約聖書に書かれた記事を「事実」としてとらえ、それを信じるか、あるいはそんなものは捏造されたフィクションであるとし、「事実ではない」とするかが、色々な意味での重大な分岐点になる。
さて、ここで、「信じる」とりわけ「神を信じる」という人間のアクションが問題になってくる。「信じる」とは、いったいどういうことなのだろうか。自分が、例えば「神を信じる」とは、いったいどういうことなのだろうか。それは、人間の意志や努力の結果、信じたり信じなかったりするという類の人間的行動のひとつなのであろうか。
ある人は新約聖書に書かれた記事を信じ、ある人は信じていない。その違いをもたらすのは、いったい何なのであろうか。その人の性格か、遺伝子か、環境か、教育か、所得水準か、社会的地位か。どうして、ある特定の人は(それも、日本においては大変に少ない比率である)、新約聖書に記された記事とその主人公であるキリストを信じているのであろうか。このコラムをお読みいただいているあなたは、どのようにお考えになるであろうか。
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